咲華
この世で最も貴い貴女の警護を主である左大臣様より仰せつかったのは今から、
ちょうど一ヶ月ほど前の話になる。
そのお方は、非情に稀有な存在で、本来であればわたしなんかとは縁がないお方だ。
誰にも汚されることのない、誰もその方を汚してはならない絶対の領域のような方。
年頃の娘と変わらぬ脆さを持ちながらも、こちらを驚かせるほどの意思、心の強さを持つお方。
気付けば、その方を目で追ってしまい、探してしまっている自分がいた。
その方といられるだけで、心がどこか温かくなり、それを心地よいものと甘受している。
そのような事が許されることではないとわかっていながら、その甘美さに抗えないでる己の弱さがあった。
「わあっ、かわいい!!頼久さ〜ん!!ちょっと見て行ってもいいですか?」
無邪気に笑いながら女人の好みそうな櫛や髪飾りの売っている出店の前でわたしに尋ねてきた。
「仰せのままに。わたしはあちらの木の下の方にいますので、ゆっくりご覧になってください。」
「ありがとうございます、頼久さん!」
そうして、品物を楽しそうに見始めた。
わたしは人々の往来の邪魔にならぬよう、先ほど示した木の下へ移動した。
店の方に視線をやると、本当に楽しそうにあれやこれやと手にとって見ている姿が目に入った。
その姿を見ていると、いつものように心が温かいものに満ち溢れてくるのを感じた。
今まで、このように穏やかな気持ちを抱くことがあっただろうか?
自分でそう思うくらい、心が未だかつてなく凪いでいた。
しばらくすると、桜の花を模した髪飾りを指差して何事か店主と話しをし、すぐにわたしの方へとやって来た。
「もう、よろしいのですか?」
「あっ、はいっ。待たせてしまってすみません。じゃあ、行きましょうか頼久さん」
どことなく、元気がない様子でそう言った。
「どこか具合でも悪くなられたのですか?元気がないように見えるのですが…。」
どこか憂い顔で元気がない様子になったことが気になり、思わず聞いてしまっていた。
このお方には、いつも笑顔で、いつも元気でいてほしい。
もし、その顔を曇らす原因があるのであれば、自分に可能であるならば、取り除きたいと思った。
「大丈夫です、何ともありませんよ。さあ、大豊神社に行きましょう。暗くなる前に戻らないと、また藤姫ちゃんが心配しちゃいますから!」
どこか憂いの混じった笑顔を浮かべ、わたしに言った。
自分に気を遣っているのだろう。そのような気遣いわたしなんかにはもったいない…そう思ったが、ここでわたしがなお言い募ったら、この方はお気になさるだろう。
そう思い、それ以上の追求はやめ、大豊神社へ向かった。
土御門の屋敷へ戻って来たのは、夕暮れ時だった。
「頼久さん、今日はありがとうございました。怨霊の封印もうまくいきましたし、怨霊と戦って疲れましたよね?ゆっくり休んでくださいね!!」
「いえ、そのようなことは。怨霊の封印見事でございました、わたしなんかよりよっぽどお疲れでしょう、ゆっくりお休みください。
では、御前を失礼します。」
そうして、わたしは武士団の棟へと足を向けた。
戻りながら、あの方の元気がなくなってしまった原因を考えていた。今まで、女性と話すことなど母上か、藤姫様以外にはなかったことだ。
考えながら歩いていると誰かから声をかけられた。
「よう、頼久。今日はけっこう早かったな?」
天真だった。天真はあの方と同じ時空からやって来ている。当然自分よりも長い時間を共に過ごしてきている。
天真だったら、原因がわかるかもしれないと思い、天真に聞いてみることにした。
「なあ、天真。尋ねたいことがあるのだが…。」
「何だよ改まった口調で。答えられることなら答えてやるよ。」
あの方が突然元気がなくなったようになってしまったことを天真に全て話した。
・・・・・・。
全て話し終えると天真は耐えかねたように笑い出した。
「ぶはっ、くっくっく…。」
わたしは大真面目に悩んでその末に天真に聞くことにしたのだが、いったい何が可笑しかったというのだろうか?
少しむっとして、天真にまた尋ねた。
「おい、天真。何がそんなに可笑しいというのだ?」
「頼久。ぶっくくくっ…お前どれだけ鈍いんだよ。」
なおも笑いながら天真が言った。
「あかねはな、その髪飾りが欲しかったんだよ。」
「それが何が可笑しいというのだ?」
天真がこんなにも何を可笑しがっているのかわからず聞き返した。
「ホント、お前が朴念仁って言われるのがわかるぜ。」
今度は苦笑しながら天真は続けた。
「あかねは自分の自由になる金もってないだろ?いや、まあ、少しぐらいは持ってるだろうけどよ。で、その髪飾りが欲しかった。だから店主に値段を聞いてみた、が、自分の所持金では買えない額だった。だから、凹んでたってことだよ。」
…ようやく合点がいった。その場を見ていたわけでもない天真にわかるのに、どうして自分は気付かなかったのだろうか。
天真の言うとおり、本当に自分は朴念仁だ…。
「天真、ちょっと出かけてくる。誰かに居所を尋ねられたらすぐ戻ると言っていたと伝えておいてくれ。」
そう天真に言うや否や、朝、立ち寄った市へと向かった。
「へーへー。って、もういねぇ。ったく、あの朴念仁がな〜…、俺もうかうかしてらんねーな。」
天真はライバルがまた増えたと一人ごちたが、それを聞いている者は誰もいなかった。
頼久は日がすっかり暮れてから土御門へと戻ってきた。
失礼であることも、今日はもう会えないことも十分わかっていたのだが、自然とあの方の部屋の方へ足を向けてしまっていた。
部屋の近くまで行くと突然名前を呼ばれた。
「頼久さん!?」
わたしの名を呼んだのはわたしが会いたいと願っていたあの方だった。
「どうかしたんですか?」
「神子殿、どうかこれを受け取っていただけませんか。」
差し出したのはもちろん、先ほど急いで市へと向かい、店じまいをしていた店主に頼み込んで売ってもらった神子殿が気に入っていた様子のあの髪飾りだ。
包みごと神子殿へ手渡した。
「あけてみてもいいですか?」
わたしは頷いた。
「えっ、これ…。」
「神子殿にお似合いになると思い、買って参りました。」
沈黙が訪れた。神子殿がきっと笑顔になってくれる、そう思い買ってきたのだが、それは間違っていたのだろうか?
沈黙に不安を覚えた。
「女性に軽々しく贈り物なんてしてはだめですよ、頼久さん。女性は勘違いしちゃいますよ?だからこれはわたしは受け取れません。」
神子殿は少し切なそうな顔をしておっしゃった。
「軽々しくなどでは決してありません。わたしは神子殿、あなたの笑顔が見たかったのです…。」
自分でも気付いてなかった気持ちが唇からこぼれ落ちた。
「むしろわたしは神子殿に勘違いしてもらいたいです…。どうか受け取っていただけませんか?」
神子殿は驚きに満ちた表情を浮かべ、美しい玉のような涙を流した。
神子殿の涙にわたしはうろたえ、狼狽した。
「申し訳ございません。神子殿にそのような表情をさせるためにしたわけではないのです。どうかそれはお捨て置きください。これ以上不快な思いをさせるわけには参りません、御前を失礼いたします。」
どうしようもなく胸が苦しく、辛かった。
神子殿から逃げるようにしてその場を去ろうとした時…。
「待ってください、頼久さん!!不快なんてそんなことありません。むしろ嬉しいです。」
失礼であることは承知しているが、振り返って神子殿の方を見る勇気がなかった…。
武士団の若棟梁ともあろう源の武士が情けないと思いながらも、勇気が出なかった。
「この髪飾りをわたしに渡してくれたとき本当は嬉しくてどうしようもなかったんです。でも、皆わたしが龍神の神子だから優しくしてくれる。
わたしにはそれがすごく辛くて、悲しくて…。
えへへ、似合いますか?頼久さん。」
そう言われ、ようやく神子殿の方へ向き直ると、髪飾りをつけ、美しい笑顔を浮かべてこちらを見ていた。
「…想像していたよりも、ずっとずっとよく似合っております。」
神子殿の笑顔で自分の胸が温かく、いや、熱くなるのを感じた。
神子殿への思いを自覚した時だった。