天使に心乱されて
あれからもう一年経つんだな。
ヴァイオリンを始めたのはコンクールからだと言っていた君は、
その性格と人柄のせいだろうか、
コンクール参加者や君に批判的だった音楽科の生徒達をまとめあげ、アンサンブルコンサートを成功へと導いた。
その成功により、あの口うるさい、口ばかりの理事共にその実力を認めさせ、
ついにはわたしの出した難題、オーケストラのコンミスという大役を務めあげた。
わたし自身、最初は無理だろうと思っていたのだが、
不可能を可能にする君自身に、君の奏でる音色に、今は無限の可能性を感じている。
「吉羅よ、お前さんいったいこんなとこで何やってんだ?」
ちらりと目をやると、いつもと変わらぬ白衣にスリッパ姿、おまけに無精ひげを生やした
我が学院の現役音楽教師にして、元テノーリスト、そしてわたしが学院の生徒だったころの先輩である、金澤紘人がそこに立っていた。
「金澤さんこそ、こんなところでいったい何をなさってるんですか。他の職員の方々は後夜祭に参加しているというのに。」
「俺はこうゆうのは苦手だ。お前だって知ってるだろ?長い付き合いなんだ。俺のことなんかより、いいのか?」
唐突な質問ながらも、何のことなのか想像はついたが、それは隠した。
「何がです?」
平然とそう返すと、金澤さんはやれやれと言った感じで軽くため息をついた。
「お前さんな〜…。ほれ、あそこだよ、あそこ。」
金澤さんの指し示す方向の先にいるのは、見なくてもわかっている。彼女がそこにいて、ここからその姿が見えるからこそわたしはここにいたのだから。
彼女の緋色の髪に良く似合う、彼女自身を表現しているかのような純白のドレスを纏い壁際にたたずんでいる。
まだ、わたしは何を言っているのかわからないというフリをして、金澤さんに返した。
「日野君が何か?」
今日彼女は、一年前と同じ舞台に立って、一年前とは比べ物にならないほど堂々と、繊細で清らかな素晴らしい演奏をし拍手喝采を浴びた。
観衆のスタンディングオベーションが物語っている通り、わたしからしてもとても素晴らしい演奏で、彼女自身も演奏に満足している様子だった。
のはずだが、今彼女は、浮かない表情で壁の花に徹している。
そのことには金澤さんが来る前から気がついていたがどうも、理由がわからないでいた。
わたしが眉を顰めていると、
「あいつ後夜祭が始まってから、何人もパートナーの申し込みが来てるってのにず〜っとあの調子だ。ほら、また来たぞ。」
金澤さんに言われるまでもない。その様子もずっと後夜祭が始まってから見てきている。
なぜこんなに自分が彼女の様子を気にかけていて、彼女が申し込みを断るたびにほっと胸をなでおろしているのか。
わたしは一つの考えにいきつくが、それを否定し続けている。
今回の相手に対しても彼女は、申し訳なさそうに頭を下げて断っている様子だ。しかし、男の方がなかなか諦めない。
ある確信を否定し続けながらいるものの、その様子に心がざわついて仕方がない。
気がつけば体が先に動いていた。
「金澤さん、失礼しますよ。」
足は自然と彼女のいる方へ向かっていた。
「ほいほいっと。ったく、吉羅のやつホントに手間がかかるな。自分がどんな顔していたのか見せてやりたいぜ。」
吉羅がその場を去った後、金澤が呟いた言葉を吉羅は知る由もない。
「本当にごめんなさい。そんな気分じゃないんです。」
「一曲だけで良いんだ。ずっと日野さんを見てたんだ。踊ってくれないかな。」
――――カツッ
「彼女に用事があるのだが。」
「吉羅理事長っ…。」
彼女は驚きに目を丸くしてわたしの方を見た。
「他の理事達が彼女と話をしたいと言っていてね、わたしが彼女のエスコート役を頼まれているのだよ。
すまないが、彼女への誘いを遠慮してもらいたいのだが。」
っとわたしが冷ややかに言うと、
「すみませんでしたっ。」
っとわたしの様子に恐れをなした男子生徒は脱兎のごとく逃げた。
「あの、吉羅理事長、ありがとうございました。でも、理事達がわたしと話をしたいと言っているからなんていって平気なんですか?」
男子生徒へとわたしが言った言葉は彼女が心配するとおり、嘘だ。
理事達は後夜祭が終わる前にとっくに学院からは去っており、彼女のステージが終わった時点で彼女と話をしている。
「君の気にすることではない。」
「そ…うですか。」
彼女はうつむいて黙り込んでしまった。
「…ふぅ。言い方が悪かった。すまない。理事達がもうすでにいないということは、一般生徒は知らないことだ、大丈夫だろう。」
「そうですよね…。」
わたしの言い方が悪かったために彼女はうつむいてしまったのだろうと思っていたのだが、未だ彼女はうつむいたままで、
先ほどより元気がなくなってしまったように感じる。
その様子に心がまたざわつく…。
この空気をやり過ごしたかったからだろうか、それともわたしの本心なのだろうか、わたしはある言葉を紡ぎだしていた。
「君をエスコートさせてもらえないだろうか。いやなら、断ってくれてかまわない。」
うつむいていた彼女は、顔を上げた。驚きに満ちた表情でわたしを見ている。
こんなことを言った自分を自分自身が信じられない。
しかし、そんな自分の思考とは裏腹に、わたしは言葉を続けていた。
「わたしと踊ってもらえないか、と言っているんだ。」
驚きに満ちていた表情は、次第に美しい微笑みへと変わった。
そして、その唇から返事が紡がれる。
「喜んで。」
その微笑みと返事に自分の心がふわりと温かくなった気がした。
手を差し伸べて彼女の手をとり、ワルツの輪の中へ。
まるで、二人だけの世界であるような錯覚すらするような時間が流れた。
「今日の演奏素晴らしかった。理事達も大層満足していた。」
「ありがとうございます。褒めていただけるなんて思ってなかったので、うれしいです。」
はにかんだように笑って彼女がそう言った。
わたしの心が凪いでいくのがわかった。
彼女の先ほどの様子が気になり、聞いてみることにした。
「先ほどまで元気がないように見えたのだが、何かあったのかね?」
わたしの問いかけに一瞬答えるか否か迷ったようだったが、彼女は答えを紡ぎだした。
「…星奏学院での最後の後夜祭のワルツ、どうしても好きな人と踊りたかったんです…。
でも、その人の姿は見当たらないし、その人の立場上わたしとは踊ってもらえないってことはわかっていたんですけど、どうしても諦められなくて。」
わたしの胸はひどく痛んだ。
「諦めてもう帰ろうって何度も思ったんですけど…。」
これ以上聞いていたくないと思った。しかし、彼女の言葉は続いた…。
「…諦めなくて良かったです。」
頬を染めて彼女はそう言った。その言葉にわたしの心臓は跳ねた。
わたしはどうやら彼女の一挙一動に心を乱されているようだ。
ようやく、目を背けていた事実と向き合うことにした。
自分の気持ちを見てみぬフリしてきたのは、一回り以上も年の離れたこの少女に拒絶されることを恐れていたからだ。
認めてしまえば一気に心が楽になった。
「ふっ…。」
わたしが自分の愚鈍さんに笑うと、彼女は不思議そうにわたしを見つめた。
彼女にだけ聞こえるようにわたしは彼女の耳元で囁いた。
「どうやら、わたしは君のことをいつの間にか愛してしまったらしい。」
頬を朱色に染めて、彼女はわたしを見上げて周囲の音にかき消されてしまうほど小さな声で言った。
「すごく、うれしいです。夢みたい…。好きな人と後夜祭でワルツを踊れて、さらに…。わたしこんなに幸せで良いんでしょうか。」
彼女のこの言葉によって、わたしの心臓は少年のように高鳴っている。
自分の言葉で大の大人の心を乱していることに彼女は気付いていないだろう。
「この後、一緒にディナーへ行かないか?遅くなってしまうが、家まで送り届けるから。」